・心霊写真2 ・駄剣道マンガ ・歳末交通安全週間 ・血液型云々 ・仮面ライダー響鬼 ・心霊写真  
大奥〜第一章 ・ジェンダーフリー  ・超常現象を信じる人々  ・イラク人質事件  ・『感染』『予言』 
アメリカ人に怨念が理解できるのか  ・RED   ・アンドリューNDR114
  ・医療について思う事   ・横浜フリューゲルスを思い返す

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心霊写真2


クリック)
画質が悪いです。すいません。
ほん怖12/6放送分の心霊写真です。
袖口から別の腕がのびているそうです。

鑑定した「霊能力者」下ヨシ子氏によれば、悪霊が子供を霊界に引きずり込む瞬間だそうです。
本物なら決定的瞬間でしょう。

でも、ちょっとまって下さい。
画質が悪くて見にくいでしょうが、あれが腕だとすると、本体はどうなっているのでしょうか。
子供も親も半そでです。つまり夏です。そして、謎の腕も素手のようです。

腕の一部が見えている事。
親子と同じ半そで、もしくは素手。
そして遠近感。

それを考えると、この父親の体に隠れるようにもうひとり誰かがいたのでしょう。
この腕に人間の体のシルエットを追加すると、この写真の全景が見えてきます。
つまり、背景にもうひとり誰かいて、たまたま腕の一部だけが見えているだけの写真にすぎません。
腕のかぶり具合がたまたま袖口にかかっているために、無気味に見えているだけだと解釈できます。
つまり、怖がる事は何もないのです。


駄剣道マンガ再び、いや三たびか。

 剣道はスポーツではない。武道である。加えて言えば、武術でもない。あくまで道なのである。
 日本人はあらゆる事に意味を求める民族である。書や茶にすら道を求める。それは物事を通して自らと向き合おうという日本民族ならではの感性なのかもしれない。

 僕は剣道を高校生までかなり真剣にやっていた。僕の地元の熊本は剣道王国と言われる程、剣道人口が多く猛者もかなりの数いた。僕もその中で揉まれてきた。上京して、ある剣道クラブに入会した時、もう剣道を辞めて三年近くたっていたにも関わらず、そこの上級者と普通に打ち合えた時、熊本のレベルの高さを実感したくらいだ。
 まぁ色々あって今は剣道から離れてしまったが、未だに剣道は大好きで機会があれば、と思っている。

 週刊少年チャンピオンで剣道マンガが始まった。「剣聖ツバメ」。
 読んで驚いた。ヤバい。最悪のマンガの匂いがする。
 ここ最近、少年誌で間違った剣道マンガが立続けに連載されている。
 一番酷かったのは少年サンデーで連載されていた「旋風の橘」だったけれど、「剣聖ツバメ」も負けず劣らずである。

 なにせ、いきなり日本剣道協会に喧嘩を売るようなシーンからスタートし、それを打開するための方法が過去の剣豪の霊を現世に蘇らせると言う話。で、主人公に取り付いたのが佐々木小次郎らしい。剣道なんて全く知らない主人公が小次郎に乗っ取られるといきなり達人になると言う設定は、剣道を囲碁に変えたらどっかで見たような気がするぞ。

 まぁ少年マンガなんだからと大目に見ろよ、という意見もあるだろうけど‥‥‥甘い!

 かつて六三四の剣という本格剣道マンガがあった。作者は村上もとか。恐らく僕らの世代で剣道をやっていた連中は少なからず影響を受けているはずだ。僕の周りでも六三四の剣読んで剣道はじめたと言うやつはけっこういた。内容は正統派で荒唐無稽な必殺技などほとんど出てこなかった(あくまでほとんど)。それは実際に剣道をやっている人間からしても共感できるもので、何より面白かった。

 驚くべきなのは作者の村上もとかは剣道を一度もやった事はないということだ。あれだけ、剣士の心情に精通し、リアルな絵を書き、感動的なストーリーを書いた作家が全く剣道をやった事がなかったと言う事に僕は驚いた。それは取材と研究によるものに違いないが、プロの技の凄みを見せつけられた感じがした。
 つまりだ。わけのわからない必殺技と設定を使わなくても面白い剣道マンガを作る事は可能だということになる。しかし、それをやらないで適当に迫力とインパクトだけを求めて書こうとすると駄作になる。

 剣道は競技であるから勝負けは存在する。ただ、最終的な目的は勝負けではないはずだ。仮に勝負けが存在するとするならば、それはあくまで自己との闘いでしかない。

 「克己」

 武道の目的はあくまでここにある。
 まぁ、すぐに打ち切りになるであろうマンガにここまで目くじらをたてる気はないとも思うが。

 


歳末交通安全週間

 昨日、箱根までドライブに行ってきた。混雑するのを予測して、かなり早めに出たはずだったのにやっぱり途中で渋滞に巻き込まれてしまった。小田原に入ってからはそれほどでもなくてスムーズに進めたのだけど、そこに着くまでにイライラさせられる事が多かった。着いてからは、紅葉もきれいで空気もきれいだったのでああ来て良かったな、と思ったけれど。

 その途中で何度か警察の取り締まりを見た。捕まっている人も何人かいて、ふて腐れた顔をして警察の説明を聞いている。歳末の交通安全週間になるとこう言った風景が珍しくはない。普段は見のがしている小さな違反でも厳しく取り締まってくるから、気をつけて走らないと。

 そういえば、うちの近所の踏み切りの近くには警官の隠れ場がある。先日そこを歩いていたら、急に二人組の警官が白バイで飛び出してきた。なんだろうと思ってみていたら、新聞配達のおっちゃんを捕まえてヘルメットのあごヒモを締めていない事で切符を切り出していた。いつもは注意すらしない行為のくせに、さすが交通安全週間、警官の違反者ノルマを達成しようとする努力にはいつもながら頭が下がりますな。できれば、そんなことより、もっと邪魔になる違反者を捕まえてほしいものですけど。

 実はその場所に警官がいる理由は大体分かっている。その場所は踏み切りの手前で、しかも人通りが少ない。ただし、国道に抜ける道であるから車の往来は一定量ある。そして踏み切りの前には「止まれ」の文字。つまりそこで待っていれば、一時停止を完全にやらないで、そろそろと徐行する車が高い確率で見つかると言う事だ。警官の交通違反検挙のノルマ(努力目標というらしいが)には違反の区別はないらしい。だから、確実に違反者を取り締まれるあぁいった場所に潜んでいるらしい。それ自体は悪い事ではないのかも知れない。交通ルールを守っていない運転手がいるわけだから、警察が取り締まる事に問題はない。

 ただ、それなら 毎 日 そ こ に い ろ。

 もっと取り締まる必要のあるやつはいっぱいいそうなんだけど。
 あれを見てると寒い中御苦労様です、とはあんまり言いたくない気がしますね。 


血液型云々

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041127-00000054-mai-soci

まぁ、やっと動き始めた様ですね。
動くのが遅すぎる気もしますが、動いただけよしとしましょう。

ここ最近の血液型性格判断番組の愚劣さは見ていて気分が悪くなるものばかりでした。大体、血液型と性格との関連については数多くの心理学者の実験によって明確な因果関係は認められない、と結論付けられているはずなのに、未だに信じている人が多い。血液型の本来の役割を理解してさえいれば、性格への影響など出るはずはない事は簡単に理解できるでしょう。

人間の性格は矛盾に満ちたもので、一人の性格の中に数多くの人格は存在しているものです。それ故に、あなたの血液型の特徴はこれ、と言われれば当たったように見えてしまうものらしいです。だからこそ、人間の心理は面白いのです。それをわざわざタイプでわける必要はハッキリ言ってありません。

特に、血液型で分かる相性だとか、健康運だとか、行動パターンだとか、科学を隠れみのにして標榜するのは危険です。これは科学でもなんでもないのに、白衣を来て分けのわからない数字を出して、意味のないグラフを並べるだけで、ころりと騙される人はいるわけです。

黒人は知的能力が低い。
黄色人種はずるがしこい。
白人は優秀で潔癖。
だから白人は黒人と黄色人種を使役していい。

血液型で人格を判断する人は、上のような事を肯定することと同じである、と言う事をまず自覚して下さい。

(追記)
ここまで書いて思い出した事が一つ。
僕が以前働いていたファーストフードの店長はB型のコは絶対アルバイト採用しない、と言ってました。
実際、その当時アルバイトのコにはB型はいませんでした。店長が言うには、B型は不真面目で相性が悪いからとの事でした。血液型で差別をしていた人は僕の身近にもいました。あぁいう番組の影響を受けやすい人が社会でリアルに行動している事実があったわけです。それを思いだすと、胸が痛くなります。なぜなら、僕はB型でその店長にはずっと睨まれていたからです。僕を採用したのはその会社の社長で、店長は関与していなかったからだそうです。まぁ、僕はさっさとその店はやめましたが、いまでもその人は血液型で従業員を差別しているのでしょう。自分がクビを切られていなければ。



仮面ライダー響鬼
 仮面ライダーブレイドもそろそろ終りが近そうだ。始まった時はどうなる事かと思ったが、どうやら無事に着地しそうだ。残念ながら剣崎の滑舌の悪さは最後まで治らなかったようだけど‥
 昨年ブレイドのデザインが発表された時にはなんだこの頭の尖ったかっこ悪い奴は、と思ったものだが一年たった今では素直に見なれてしまった。逆にキングフォームのごちゃごちゃした方が気に入らないくらいにまでなっている。慣れというのは恐ろしい。

 と、この時期になると来年のライダーの話題がちょこちょこと出てくる。某巨大掲示板ではかなり早い時期から来年の仮面ライダーを予測するスレが立っていた。僕もそこは覗いていたのだけれど、まだ確証のある情報はでていなかったが、様々な噂は飛び交っていた。来期は楽器をモチーフにしたライダーだ、というのもその一つ。僕はこれはありえると思っていた。管楽器とか、弦楽器はデザインしやすいだろうと思ったし、最近のライダーのお洒落さを考えるとやってもおかしくない、と。
 そして、今ネット上でその新ライダーの画像が出回りはじめた。新ライダーはなんだ?楽器ならホルンか? ギターか?まさかハープか??




和太鼓かよ!

最近のライダーの流れをぶっ壊す、兄貴系のライダーが来年の主役だそうです。

名前は響鬼だとか(読み方は不明、剣でブレイド、555でファイズだから、ビートとか読ませるのか?)
悪を叩くって‥顔は完全にライダー系じゃないし。バチもって戦うライダーってどうなんだ?
やっと、剣だの銃だの持って戦うライダーに免疫ついてきたところに‥バチ。
願わくば、この画像が仮面ライダーではありませんように・・・

ちなみにうちの奥はこいつのベルトを見て、元聖飢魔IIのライデン湯沢か、と言ってましたが。
それも分かり辛い例えだな、とはその場では言いませんでした。

 


心霊写真

『ほんとうにあった怖い話』やってます。
心霊写真のコーナー相変わらずです。鑑定家の宗優子氏の鑑定も相変わらずで、苦笑です。
では、せっかくなので。
(一枚目)
 二年前の夏、自宅で撮った写真です。
 娘の姿を見て非常に恐ろしくなりました。
 娘の身に、何か悪い事が起きるのでしょうか?
 鑑定をお願いします。

 
 定番です。足消えてます。
 スカートです。ひざから下です。
 で?鑑定は?

だそうです。 未成仏の先祖霊だって。

二枚目

 修学旅行先で、友達と撮った写真です。
 私の体が恐ろしい事になっています。
 また自分の体にだけ、赤い染みがあり
 どんどん広がっているのです。
 気味が悪いので、鑑定お願いします。




(クリック)
足消えてるそうです。やっぱり両隣りに人がいます。
鑑定は?
この付近の霊が大挙して押し寄せたそうです。その結果だそうで。
お炊き上げしろとのことですな。

三枚目
 甥っ子が生まれた時、病院で撮った諮^です。
 背後に奇妙なものが獅チています。
 この子の母親も病気になり、甥っ子にも
 何かあるのではと心配でなりません。
 鑑定をお願いいたします。



クリック
わかりますか?気にしすぎのような気も‥
で、鑑定は。
幼くして亡くなった未成仏霊だそうです。
よくわかりますね。

僕はカメラの知識があるほうではないので、よくわかりませんが、プロなら撮らない写真ばかりの ような気がします。
心霊写真の詳しいメカニズムはリンクから、「超常現象の謎」をクリックしてみてください。


(11/26日追記)
 「超常現象の謎」の海江田さんに某所で鑑定してもらいました。当該レスを転記いたします。

1枚目
この写真を見て、重要なことに気がつきました。
「写真というのは、よく見ないと撮影角度がわからない」ということ
この写真、大人が直立して、高い位置から撮ったようです。
最初は、例によって、左足を曲げているのかなと思いましたが、少女の
姿勢から判断すると、両足を大きく開き、しかも、左足を少し後ろに
下げた格好で立っているのでしょう。
少女の左足がどの位置にくるかを想像すると、なんてことはない写真
です。
逆に、左足が写っていると怖いです。
カメラを少女の頭の高さに合わせて撮影すれば、足はちゃんと写った
でしょう。
この写真は、左足がスカートに隠れているだけです。
 
 海江田さん、ありがとうございました。


 

大奥〜第一章
 ドラマ「大奥〜第一章」が面白い。前作も良かったが今回もいい出来だ。ひさしぶりのドラマの王道を見たような気がする。前回のシリーズが江戸時代最後の大奥であったのに対し、今回は創成期の話である。いわゆる春日局が主人公である。僕は大学時代歴史を専攻していたので、こういう話しが大好きです。

 せっかくなので徳川家の系図を辿りながら説明させていただこう。以下、ドラマのネタバレを含みますので気に触る方は、ここまでで。

 現ドラマの将軍三代将軍家光の生母はお江与の方である。彼女は二代将軍秀忠の正室である。実は徳川将軍家で正室から生まれたのは家康、家光、慶喜の3人しかいない。残りはみな側室の子なのである。ところが家光の生母お江与の方は家光に愛情を注げなかった。それは初めて身ごもった子を流産してしまい、そのあとに家光を宿したため、前の子が家光の為に死んでしまったという思いに苛まれていたからと言われている。その後忠長を宿した事も大きい。今度は死んだ子の生まれ変わりに感じたと言う。

 恐妻家であった秀忠は妻に逆らう事はできなかったので、家光の時期将軍就任は風前の灯火と言って良かった。それを憂慮した乳母おふく(のちの春日局)は、当時大御所として権勢を誇っていた家康に直接進言し家光を守ったのであった。

 その後三代将軍に任じられた家光はおふくに絶大な信頼を寄せるようになる。しかし、家光は就任したものの世継ぎには恵まれなかった。一説には家光には男色、女装癖があったせいとも言われているが、定かではない。それを憂慮したおふくは家光に側室を何人もあてがう。その結果として、側室お楽の方に嫡子が生まれる、これが後の四代将軍家綱である。さらに、お夏の方に綱重が、お玉の方に綱吉が生まれる。

 その後家光が急死したため、四代将軍に長男家綱が就任する。家綱は11才で将軍になったのだが29年間将軍職にあり、文知政策を押し進めた。ところが、家綱は病弱で世継ぎを残さないまま死去したため、次将軍には弟である綱吉が就任する。ここで綱重を推す声もあったのだが、なぜか急死したため綱吉にお鉢が回ってくる。ちなみにこの時、綱吉の将軍就任を後押ししたのが堀田正俊と御存じ徳川光國(いわゆる水戸黄門)。 

 綱吉については「生類憐れみの令」のおかげであまりいい評判はないが、実はかなりの名君であった。最近ではその業績の見直しもすすめられている。綱吉の生母お玉の方は家光死去後尼となり桂昌院と名乗っていたが、綱吉を通し政治への介入を強める。生類憐れみの令は彼女の進言によるものといわれている。
 
 現在ドラマでお玉役は星野真里がつとめているが、彼女がどのようにして変わっていくのかが密かに楽しみだったりする。最終的に勝ち残るのはお玉だからなぁと思いながら来週を待つ僕がいるのであった。

 


 ジェンダー
 男性が男性らしく、女性が女性らしくと言う言葉は昨今の個人尊重主義の社会ではどうも嫌われる発想らしい。人は個性をもった個人であるから「男性」「女性」という分け方ではなく「個人」そのものとして扱うべきだと言う意見も良く聞く。

 確かにもっともな話だと思う。しかし、本当にそんな単純な事かとも思う。社会における性別を生物学的な性別(セックス)に対してジェンダーと言う。そのジェンダーがいかにして確立されてきたかを考えると、単純に「個人」として扱う事の難しさが出てくる。歴史的に見て、女性は男性に比べて冷遇されてきたのは事実に違いない。選挙権も被選挙権も女性に与えられたのはごく最近の事だ。それまでは女性は大儀に関わるべからずという考えが主流で、家を守ってさえいればそれで良しとされてきたのだ。人間の歴史は狩猟・採集時代から始まり現代に至るまで、外で仕事をするのは男性の役割だった。それは日本だけではなく、ヨーロッパでもアフリカでも同じである。むしろ、これだけ多種多様な文化が混在する世界であるのなら、女性が仕事をし男性が家庭を守るという風習を持つ民族がいてもよさそうなものだが。(※これについては僕もあまり知識がないのでこういう事例があるよ、と言う方がいらしたら教えて下さい)そのせいで男女の脳のつくりは根本的に違っているとも言われる。

 基本的に男性が女性より体力はある。それ故に狩猟・採集時代では女性より男性が仕事をする必要があったのだろう。ところが、現代に至って直接肉体をダイレクトに使用する仕事は極端に減っている。技術の革新により、ブルーワーカーであっても負担は減っているはずだ。それが女性の社会進出を促す一要因になっているはずである。
 しかしである。現実問題として、女性の社会進出は難しい。なぜか。
(ここからは少し僕の暴論になるかもしれないので、先に謝っておきます)

 女性の社会進出を阻む最大の敵は女性のような気がする。
 女性の中には「社会に出て活躍したい」という人間と、「家庭に入って静かに生活したい」という二通りの認識パターンを持つ人が混在している。そして、その二通りのパターン認識を持つ人たちは決して相容れない。一部では女性の権利拡大を謳っている人たちがいながら、それを否定する勢力も確かに存在している。そしてどちらかが力を強めると、もう一方の勢力が潰しにかかるような気がする。最近ではカリスマ占い師の某氏が女性は男性の陰になるようにと色々なテレビ番組で吹聴している。あたかも女性は不浄であるといわんばかりの旧時代的な発想をゴールデンタイムで耳にするとは思ってもいなかった。

 よくよく考えればそう言われて喜ぶ男性がいる事が大本なのだけども、そこに出演する女性芸能人は神妙な顔をして受け入れている「フリ」をしている。ばかばかしい、お前は男性を差し置いて仕事してるじゃないかと、問いつめたいが。どうせならそこに田嶋陽子でもつれてきてほしいが、論陣が二分するのを恐れる制作側は絶対にやらんだろう。情けない。

 結局のところ女性側の意見がまとまらないかぎり、喜ぶのは男性だけという構図が永遠に続くのだろう。まとまりなど絶対にないだろうが。それだけに男性の陰に隠れて泣く女性も減らないと言う事になる。だから難しい。一般化すると本当に難しい問題なのだ。それだけに影響力のある人間は発言を気をつけてほしい。世の中には占い師にころりと騙される愚か者は山程いるのだから。

 個人が個人であることは当たり前の事だ。それを尊重するのも当たり前だ。その当たり前を維持するために、どれだけ努力をできるかということが大切だ。特に理解者ぶった男性の責任は大きい。「働くのもいい」「家庭に入るのもいい」個人の勝手だから、なんてどっちつかずの意見を言うのは「無関心」と同じで毒にも薬にもなりはしない事を理解してほしい。

                             うーん。今回はまとまりが悪いな・・
※11/17日追記
 色々調べてみた結果、女性と男性の逆転社会は存在する様です。まだ、調査中なので詳細は分かりませんが、後日まとめておきます。また、男性優位社会がどのようにして誕生したのか、古代の女性優位社会はなぜ衰退したのか、それもまとめたいと思います。
 やはり、思いつきだけで書き出すと、矛盾だらけですね。反省。


 超常現象を信じる人々

 年末になると、テレビ番組も特番が多くなるようで、通常番組が削られてしまい少々寂しい思いをしてしまう。しかしながら、こういう機会でしか見る事のできない番組も多々あるのも事実で少しだけ楽しかったりもする。中でも、人からよく変わってるといわれるのが、「警察24時」を録画までしてみることなのだけれども、好きなのだから放っといて欲しい。実際あれくらい面白いもの中々ないぞ、暴走族取り締まりのやつとか最高じゃないかい。捕まるまであんなに暴れてたやつが警察署で一人になったらどんな顔するのか考えただけでも面白いとおもうのだが・・・。なかなかそのへんが分かってもらえないで大笑いされるのはいつもながら困ったものだと思う。

 さて、そんな中「奇跡体験アンビリバボー 恐怖のクリスマススペシャル」を見た。どうも最近この番組がおもしろくなくなってきていて、レギュラー番組については殆ど見ていなかったのだが、今回ひさしぶりに恐怖スペシャルをやるということで見てみる事にした。うたい文句はカメラに写った恐怖映像を公開するという事だった。
 番組内容は確かに面白かった。公開された映像も使いまわされたものではないようだし(私が見ていないだけでどこかの番組で紹介されていたらごめんなさい)それなりに恐かったのじゃないかと思う。しかし、それにしてもその恐怖映像を公開するまでの引っぱり方の長い事に正直辟易した。その最終映像のインパクトを高めるためだとは思うが、あれいらんとこ削ったら番組30分でおわるぞ。

 僕は正直そういった類いのものは全く信じていない。今、この原稿も深夜1:00を過ぎた段階で真っ暗な部屋の中、録画していたその番組を鑑賞しながら書いているくらいだ。ホラー映画を見ているような感覚だと思っていただければいい。こういったものを楽しむこつは考えないでみる事にある。私は一回見終わったわけで、そろそろデバンキングに入ろうかとおもっているけれどもw ふつうはあ〜怖かったで終わらせてしまうだろう。それが正しい見方だと思うが。

 人間は視覚で正確な物事を判断できないといわれている。見えているものに脳内補完を加える事によって、視覚象を作るという。それは錯角という現象なのだけれども、この現象を無理に取り除くとは不可能だという。例えば、心霊写真などでも自殺した場所とか、暗闇とか、因縁とかいう情報が頭にある人は見えなくてもいいものが見えてしまうらしい。よく、こんなの何処が心霊なんだよ、というものが出てくるが、それがまさにそういうことだ。

 余談であるが、中岡俊哉という超常現象研究家がいる。この人、結構その筋では有名で僕も幼いころ、この人の書いた本を何冊か持っていて、真剣に読んでいた時期もある。
 で、何年前だか忘れたが、桂ざこばがある番組内でこの中岡俊哉について語っていた事があった。ざこばが某番組で中岡と共演したときの出来事らしいが、例によって心霊写真の鑑定を行うコーナーになったという。そこで中岡はある一枚の心霊写真をこれは本物であると断定した。しかしざこばはそれがどう見てもふつうの岩影にしか見えなかったので、中岡にその旨を尋ねてみた。すると中岡はざこばにむかって、「師匠、あれはああ言っておいた方がおもしろいじゃないですか」と平然と言ってのけたらしい。番組内では霊障云々の話をしておきながらのこの態度にざこばは呆れてしまった。のちの番組で皮肉を込めて心霊写真なんて研究家の気分次第でできるもんだと言うような事を言っていたことが妙に印象的だ。

 ちなみに僕が超常現象を信じていないくせに、こう言った番組を欠かさず見ている事が嫁さんには理解できないらしい。今日も「こういう番組は喜んでみるのに、なんで超能力で人探しをする番組とか見ないの?」と言ってきた。確かに番組の主旨としては同じものなのかも知れない。が、これについてははっきりと否定しておかなければならないだろう。

 まず、こういった番組で行方不明者が超能力で見つかった試しはないと断言できる。たしかに見つかったように見せ掛けられたものもないとは言えない(*)。しかし、それは最終的には探偵の調査だったりとか、超能力が決定的だったという事実はどこにもないのだ。にもかかわらず、テレビ局は毎回同じ超能力者に出演を依頼し、捜査をさせる。そして、結局なにも見つからない。その繰り返しである。

 僕がこう言った番組を毛嫌いするのは、対象が現在進行形で進んでいる事件だからである。そこには行方不明になった人の家族がいるわけで、何年も足取りが掴めず苦しんでいる人たちがいる。生きているのか死んでいるのかも分からず苦悶する姿は正直痛ましい。警察や自分達の捜査でも何も分からなければそういった得体のしれないものにも頼りたくもなるだろう。私はそういった人たちを見せ物にするテレビ局の姿勢に疑問をいだくのである。

 もちろん彼等の言い分としてはあるだろう。これはあくまで事件を風化させないためであるとか、事件に興味を持ってもらうためであるとか、すこしでも情報提供を求めるためだとか。だったら、正統派の公開捜査番組を作ればいいのである。それをしないで、得体のしれない人間を持ち出す事自体が不謹慎きわまりないとしかいいようがない。

 おそらくこういった類いの番組は今後も続くのだろう。また、いつ自分の家族が行方不明になり、こう言った番組で探してあげましょうといった依頼がこないとも限らない。そういった時僕達がどのようにすべきか、正しい知識と論理的な考えが出来るように常日頃から鍛えておく必要があるかも知れない。
 そういえば、家内が「私が行方不明になってもこういう人たちに頼まない?」と聞いていた。この場を借りて返答すると絶対に頼まないである。そのかわり、僕の全精力・全人脈・全財力をなげうって探し出す事を約束しておこう。それは愛情云々の問題ではないから誤解しないように。軽く考えているわけではないのだよw
 
* 見せ掛けの事件としてはテレビ放映中に死体を発見したクロワゼットのケースがあるが、あれも来日前にスタッフが地図をはじめそれなりの情報を与えていた可能性が大きい。しかも、彼が示唆したダムの中という場所も実は、捜査隊がその日に調べる事になっていて、それ以外の場所は探し尽くしていたということだった。運河の多いオランダからきたクロワゼットにとってみればダムというのは考えやすい状況に過ぎなかったというところだろうか


10/31

 イラクでの邦人拉致事件は最悪の結果を迎えた。今回の事件は色々な意味で悲劇的な事件だったのではないかと思う。
被害者の香田証生氏の行動を責める動きもあるようだが、いまさらそれを言ったところで何にもなるまい。
以前にイラクで誘拐された五名と、今回の事件は全く別物であると考えた方がよさそうだ。生きて帰ってきた被害者の何名かが講演などで自分が助かった理由を述べていたが、政府の力に言及している人間は残念ながらいなかった。
恐らく、彼等には自分なりの政治目的や思想を語らねばならないのでそこに言及する事はできなかったのではないかと思う。
つまり、彼等が講演などで語る助かった理由などは、これからにおいて全く役に立たないと言う事を理解しておいた方がよさそうだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041031-00000003-mai-soci

こういう情報が錯綜していた事に疑問を持った人も多いのではないだろうか。
今回の事件において僕が感じた事の一つにマスコミ報道のあり方がある。間違った情報がさも確定のように何度も報道された。政府が確認していない情報が一人歩きして不特定多数に流れてしまった。

 そういえば、新潟地震の報道でも間違った情報が流されていた。件の生き埋めになった母子の事である。当初、母子は三名とも生存という情報が流れた。三名の心臓の 波形を感知したとか、母親の声を確認したとか、子供は二名救出されたとか、様々なものがあった。しかし、結果として、子供一人が助けられたものの母親と女児が死亡していた。後になって分かった事で、当初の情報はすべて間違ったものであり現場では絶望感しかただよっていなかったらしい。その中で子供一人が救助されたことは奇跡なのだが、テレビ画面の向こう側ではもっと大きな奇跡を期待して人も多かったはずだ。

 カメラの向こう側と現場の温度差を生んだものこそマスコミの報道なのだ。救助中、まだ状況がわからないまま書くテレビ局は奇跡の生存とテロップを打っていた。そして、状況が分かるにつれてそのトーンは変わっていった。最後の段階ではどこの局も悲劇しか報道できなかった。この温度差はなにか?

 マスメディアの報道は絶対のものではない事を自覚していなければならない。それを理解して情報を選択するのが正しい受けての姿勢なのだろう。
 国民がそれを自覚する以上、マスメディアは確実な情報、正確な報道を心掛けなければならない。報道に感動的な演出は必要無い。

感染・予言

 ちょっと前になるんですけど、映画観てきました。久々の邦画です
 『感染』『予言』二本立て。
 以下、ネタバレ含む内容です。未見の方、気をつけて下さい。

『感染』
 正直な感想は、今一つかな。
 ホラーの基本は恐いところ、気持ち悪いところをはっきり見せないというところだと聞きますが。ちょっとくどいかな。
 例えば、はじめての患者が搬送されてきて、「体が解けてる」とか「解けてる患者が笑った」とか、台詞だけで映像がないのはどうだろう? 基本に忠実なのかもしれないけれど、それだけじゃあなと言う印象。例えば口元だけでも映像化するとかあればよかったのに。 ストーリー自体はまぁまぁなんだけど、映像がついていってない感じ。

 役者陣の演技はさすがというところです。 南果歩の婦長ははまってるし、優柔不断な高嶋弟もいい。佐野史郎はホラーファンを自認するだけあって完璧に近い演技だと思います。 ただ、羽田美智子のエピソードはいらんのじゃないかと思いましたが。

 この作品どこかで観たような気がしてましたが、監督の経歴観て納得しました。
 『世にも奇妙な物語』で似たようなネタやってましたね。なるほど。

『予言』
 公開前にネットの映画掲示板観てたら、こんな事言ってる人がいましたね。
 「予言って、つのだじろうの『恐怖新聞』のパクりじゃん」

 まぁ、原作が恐怖新聞なんですが。
 当然。みんなから馬鹿にされてました。

 『感染』と同時上映で、感染が今一つだったのでちょっと心配だったんですけど、意外に面白かったです。 ただし、この作品を観る時は『恐怖新聞』の内容をよく知らないと謎が残ったままになるでしょうね。
 僕は恐怖新聞は好きだったんで素直に楽しめました。 ちゃんと鬼形礼(原作の主人公。原作では中学生)も出てくるし、新聞の予言は変えられないし。読むと寿命が縮まるし。 原作を下敷きにしていい作品に仕上がってると思います。
ただ、これ純粋にホラーかというとちょっと違う感じです。後半は完全にヒューマンドラマだし。いい話しだけど。

 ちなみに、恐怖新聞の正体は悪霊の霊団で、逃れる事はできません。 原作で主人公も死にます。ただ死んだだけでなく、恐怖新聞の配達人にされてしまいます。 今回山本圭が演じた鬼形も永遠に死ねない設定になってたのも、個人的にはニヤリでした。 主人公を導く役目を演じたのもgood。 ただ、原作知らないと誰だこいつってなるんだろうなぁと思ったの事実。 

 一番びびったのは、死の連鎖で酒井法子が轢逃げされるシーンだったのは内緒。

アメリカ人に怨念の概念が理解できるのか?

 ハリウッド映画に限界が囁かれているらしい。確かに最近の映画を見ているとどこかで見たようなシーンやシナリオが多々あるようで、なかなかこれだというものに出会えないような気がする。歴史と伝統があるのはいいことであるが、逆にその弊害として慢性的なマンネリをひきおこしてしまうものらしい。確かに細部を見れば大きく違う点はある。しかし、パターン化されたシナリオであるが故に、開始五分でストーリーが見え、最悪なものになると宣伝だけでストーリーが分かってしまい、見なくてもいいんじゃないの思えるものすらある始末だ。言ってみれば、我々が水戸黄門と大岡越前を見たときに物語りの違いはあれど同じものと認識してしまうのと似ている。

 そう言う事もあって、今ハリウッドでは異文化を積極的に取り入れながら新しいスタイルを模索しているらしい。もちろん邦画にも興味があるようでここ最近リメイクに対する権利を買い取るビジネスは大忙しだという。最近では「she'll we dance?」がリメイクされるとかで話題になっているようだが、これからもその流れは加速していくのだろう。

「THE RING」である。御存じの通り鈴木光司原作「リング」の焼き直しである。(今さらの話になるのでネタバレで問題ないと思うが念のために)僕は日本版「リング」はかなり早いうちに見た。それは確かに恐ろしいものであった。僕はそのリアリティと結末に感銘を受けた。僕がそこに恐怖を感じたのは、やはり「ビデオテープ」という日常に存在するものに「呪い」という非日常のものが組み込まれたせいであろう。身近にあるものが恐怖のツールに変わっていくと言う点では当時の作品としては秀逸であったと思う。最近では携帯電話をツールにして恐怖を描く作品が何点か公開されているが、原理は全く同じ事であろう。

 と、いうことで「リング」自体はすきなので、公開になったその日「THE RING」も見に行った。(ついでであるが、「リング2」も公開初日に見に行ったが、余りのつまらなさに途中で飽きてしまった。エンディングの瞬間に館内から「えー」という声があがったのが一番印象的だ。恐怖のシーンをやたらめっぽう増やせばいいというものではないらしい)   

 で、そこで僕が見終わったとき感じたのが、アメリカ人は呪いと言う概念を本当に理解できているのだろうか?ということであった。確かに作品自体は恐怖映画としては面白かったし、日本版を意識したつくりもいい出来であったのではないかと思う。が、しかしである。主観的な感想で大変申し訳ないのだが、恐くないのである。

 日本版「リング」では呪のビデオを作ったのは「山村貞子」という女性である。殺され井戸の中に投げ込まれた彼女の意思と天然痘ウイルスとの遺伝子レベルでの結合によって呪いは発動しビデオテープとなった。それにたいして「the RING」で呪いのビデオテープをつくったのは「サマラ」という子供であった。この二人に共通して言える事はどちらも「超能力」というものを遺伝子のなかに組み込んでもっていると言う事で、それがビデオテープへの念写と言う事を生み出したということだろうか。ただ、その恐怖の質と言うものについて言えば、残念ながらべつものであったと考えた方がよさそうだ。

 アメリカの恐怖映画と言えば「エクソシスト」「オーメン」などキリスト教的視点から作られたものと、「13日の金曜日」「エルム街の悪夢」のように絶対的キャラクターと闘うパニック系のものが多かった。
 しかし、「THE RING」にいたってはどちらかというと情念の結晶が恐怖を引き出すという意味合いが強くて、アメリカ人の一番苦手なところではないかと思う。世界一合理主義を重んじるアメリカ人には、情念とか怨念とかいうものは一番理解しにくいものではないかと思う。

 例えば、「the ring」では死者の表情が恐怖を誘うのだけれども、その表情はあくまで人間の生きた表情から生み出されるものでなければならない。日本版「リング」ではそこをうまく演出し、役者の渾身の演技をベースに作り上げていた。が、「the ring」では死者の表情は全て特殊メイクで」なんで「そんな顔して死ぬんだ」と思わざるを得なかった。いってしまえば、観客を怖がらせるのは最後の「サマラ」(もしくは貞子)がビデオから這い出してくるところだけでいいわけで、それ以外はいらないのだ。たしかにビデオを見て七日後に死ぬという事実がある以上、呪いに侵された人たちは必死で動き回るだろう。それは確かに非日常の出来事に基づいたものであるが、主人公が行っている行動だけは日常行為の延長でしかない、その日常が最後の一瞬引き裂かれるところに恐怖を感じるのではないか。

 日本人は情念の恐さと言うものをずっと紡いできた民族である。「四谷怪談」も「番町皿屋敷」もそうだが、情念の深さが人を殺すのである。欧米で人を殺すのがモンスターであるのにくらべると対照的である。
 つまり、結局のところ「THE RING」の本質がアメリカ人に理解できたかというとはなはだ疑問を感じるのである。

 
 

RED
 
 アメリカのシンボルとして名高いマウントラシュモアを御存じだろうか。おそらく誰もが一度は目にした事がある、かのアメリカ歴代大統領の顔が彫り込まれた場所である。じつはこの山は、アメリカ大統領の顔が彫り込まれているというだけでなく、別の意味でもアメリカの歴史を語る象徴的な場所なのである。

 マウントラシュモアはサウスダコタ州のブラックヒルズという場所の一角に存在している。この、サウスダコタ、ブラッックヒルズという場所は、その名前からも分かるようにアメリカ先住民(以下、インディオと表記)の聖地であった。1800年代、ブラックヒルズから金鉱が発見された。この金鉱を発掘したのはインディオの部族スー族。しかし、当時のアメリカの方針としては、いかに先住民から土地をとりあげるかということであり、このような金鉱をもつスー族を野放しにしておくわけにはいかなかったのである。カスター将軍という名前に聞き覚えがあるだろう。凶悪なインディオと闘い、アメリカを切り開いたといわれる、開拓時代の英雄である。3〜40年前のウエスタン映画では間違いなくヒーローとして描かれる人物である。このカスターによって駆逐されたのがこのスー族であるスー族はカスター等によって大地をおわれ、居留地へと押し込まれることになった。当時のアメリカを象徴する事件であった。

 ブラックヒルズはスー族にとって聖地であった。その一角を削り取り、いわば侵略者の親玉である大統領の顔を刻まれている事実は、今も存在するスー族の子孫にとってはたえられることではないらしく、ブラックヒルズを取り戻す闘いは今も続いてるという。

「RED」(講談社 村枝賢一)はそのアメリカ開拓時代を舞台としたウエスタン漫画である。主人公「RED」はウイシャというインディオの部族の一部族の少年であった。そして、そのウイシャも他の部族と同じように住処を追われ、居留地へと押し込められるという運命を辿る事になる。しかし、ウイシャが不幸だったのは護送していたのがブルー小隊であったということであった。異常者ブルーが率いる彼等は護送中一族をゲームのように惨殺するのである。最後の族長となった少年だけを守り抜く事だけが精一杯でウイシャはその存在を地上から消す。そのときから少年は「ティヨーレ」というインディオの名をすてあえて英語の名「RED」と名乗り、そのブルー小隊ヘの復讐に命をかける事になるのである。

 と、まぁざっとストーリーはこういうものなのだが、とにかくREDの怒りと悲しみが凄まじい。作品の中でアメリカ開拓史にふれながら進んでいくので、REDの怒りがインディオ全体の怒りに思えて寒気を感じるときもある。REDはブルー小隊に在籍して惨劇に参加していていたものを全て殺すつもりで旅を続ける。例えそれが過去を悔い慎ましやかに生活しているものでも容赦しない。一族を殺された恨みはさっしてあまりあるものがあるといえよう。

 この作品を盛り上げているのはREDに付き従う仲間達の存在も大きい。REDに思いをよせる元娼婦アンジー。南部のボクシングチャンピオン「沈黙の聖者」ガブリエル。大きな使命のためREDを利用する二丁拳銃遣いグレイ。過去の贖罪のためREDの水先案内人になった元ブルー小隊ゴールドバーグ。そして、西南戦争で死に損ないアメリカに逃げてきた日本人イエロー(伊衛郎)。彼等もREDとともに苦悩を背負い旅を続ける。
 物語は現在終盤にさしかかっており、直接の仇ブルーとの闘いが始まろうとしているが、なかなかこれも一筋縄ではいきそうもない様相を呈している。アメリカの隠された歴史の一部を覗く意味でも一度読んでみてほしい作品である。

 2
「RED」の話をしたところで、もう少し。
 村枝賢一氏といえば、少年サンデーで「俺たちのフィールド」という漫画をかいていた事が有名だ。ところが最近は小学館よりも講談社での仕事が目立つ。「RED」を連載しているのはYoung Magazin apperes であるが、それと同時にマガジンZというあまり聞き慣れない(笑)雑誌でもう一本の連載を抱えている。

 その名も「仮面ライダーSprits」
「時代が望むとき仮面ライダーは必ずよみがえる」
 故、石ノ森正太郎氏は常々口にしていたという。その理念が現在朝日テレビで放送されている「仮面ライダー555」につながっているということらしい。一方この俗に平成ライダーといわれている新シリーズ(クウガ、アギト、龍騎、555)は昔ながらのライダーファンには多少物足りないらしく、昭和ライダーとの比較論がいろいろなところで展開されている。物足りない理由としては主人公が改造人間じゃないとか、ストーリーが複雑すぎるとか色々あるらしいが、初代仮面ライダー本郷猛を演じた藤岡弘氏に言わせると、「正義と悪の境い目があまりにも曖昧であるから」だそうだ。藤岡氏いわく「仮面ライダーは正義の象徴であって、ライダーが闘う相手は正義に反するものでなくてなならず、仮面ライダー同士が闘いあうストーリーなどは理解できない」ということらしい。これはどうも龍騎に対する批判らしいが、本質は良くついてあると私は思う。

 そんな昭和ライダーファンの溜飲を下げてくれたのがこのspiritsである。私がはじめてこの作品と出会ったときには、また新しいアナザー仮面ライダーがはじまるのかとおもった。表紙には仮面ライダーではなく、なにか妙な髑髏の紋章を顔面にデザインしたなぞのヒーローが出ているし、舞台はアメリカだし、どうなってるんだと思ったのが第一印象。

 ところが、始まってみると、まさに正統派の仮面ライダーであって、満足の行く作品に仕上がっている事に驚いた。しかも第一部は毎回一号ライダーから九号ライダー(スーパー1)まで順番に活躍し、それが一つの流れに向かって集結していくという形で、どの世代のライダーファンでも楽しめる内容になっている。しかも書き込みにいたっては、ライダースーツのしわ一つ一つ、グローブのファスナーまで正確に書き込まれているというこだわりぶりで、アマゾンライダーにいたっては全身の縞模様をテレビ画面から正確にトレースし、どのカットからみても同じものであるようにかいてあるという。そのこだわり振りには驚嘆するしかない。

 現在作品は第二部「仮面ライダーZX編」に突入し、全ライダーが一つの巨大組織と闘うところに興味が集まっているが、私はこの作品こそ正統派仮面ライダーの系譜として残していってもらいたいと思う。
参考 http://www.enjoy.ne.jp/~ultraman/rider-s-index.htm

アンドリューNDR114
 鉄腕アトムが日曜日放送されている。僕は以前放送されていたシリーズのイメージが強くて、今一つ受け入れがたいところがある。その一つが、アトムに人間の意識をダウンロードしてあるという初期設定にあるような気がする。原作を御存じの方ならお分かりの通り、アトムは天馬博士の息子トビオが事故死したのを受けて作られたロボットである。しかし、天馬博士はアトムが全く成長しないことに絶望し、アトムを追い出すのである。

 ロボットは成長しない。いつ迄立っても変わる事がない。それが悲しさを引き立てるのだ。機械はあくまで機械それが悲哀を感じさせる。人間の意識などいらない気もするが、手塚治虫氏が亡くなってしまった以上、この変更に口を挟めるものはいないということなのだろうか。

 「アンドリューNDR114」である。
 いやー。この映画を初めてみたときは正直、こういう抜け道があったのかと思ってびっくりした。
 
 そう遠くない未来のある日、郊外に住むマーティン家に届いた荷物は、父親のリチャード・マーティンが家族の為に購入した家事全般ロボットNDR114だった。最新鋭の機能をもちながらも、礼儀正しく、どこかアナログ感も漂わせるこのロボットはアンドリューと名付けられた。
 アンドリューの主な仕事は、彼がリトルミスと呼ぶ末娘の子守り。その仕事をとおして、いつしか機械が持つはずのない個性---感受性や創造性を見せるようになっていく。マーティン家の人々の成長と老い、そして死を見守りながら、世代を超えた絆で結ばれていくアンドリューだったが、自分が人間とは決定的に違うがゆえの孤独を感じ、本当の人間になりたいという夢をもつようになるが‥‥。
                                        公式サイトより

 ロボットはあくまで機械でなければならない。そのため、ロボットが感情を持つようになるということはあまりにも不自然ではないかと思っていた。ターミネーター2のエンディングでいきなり、シュワネーターが感傷的になるところは不自然きわまりなかった。あそこで機械は機械らしくだまって消えていけばさらに悲哀はましていったのではないかと思う。

 だが、この映画ではアンドリューは徐々に感情を持っていく。そのきっかけはプログラムの異常にあわせて、人間としての教育(一種のプログラミング)を施したことであった。父親のリチャードが家族の一員としてアンドリューを教育した結果、アンドリューは極めて人間と近い感情を持つようになるのである。一見荒唐無稽なようだが、ロビン・ウィリアムスの演技とシナリオによって不自然さはあまり感じられない。

 しかし、永遠に死なない機械の体に人間の心はあまりにも辛い運命を彼に与えていった。彼と共に過ごした人間は次々に死んでいく。しかし、アンドリューは変わる事すらできない。正直、私はリチャードが死ぬときと、リトルミスが死ぬときは泣いてしまった(と、いうかリトルミスの臨終のシーンは卑怯だよなー、あんなことされただれだって泣くってばよ)

 とにかく、この映画を見た後人間ってなんだろうと考えてしまう自分がいるのは確かであろう。
 ターミネーターを見るよりはずっとおもしろいはずである。

 補足
 昨年、テレビ朝日だったかでこの映画を放送したさい、かなり編集を加えられていた。その切られた部分が時間の流れを感じさせる伏線だったりしたものだから、それしか見ていない人はあまり感情移入できなかったんじゃないかと思った。アンドリューが仲間を探して旅してるところとか、きっちゃうとなぁー。どうも、そのへんが理解できないので、TVしか見ていない人は、全編を見てほしいと思う。

医療について思う事


 病気になったとき、誰もがお世話になるところが病院であろう。一昔前は患者には病院を選ぶことなど考えもできなかったようで、近くにある病院、若しくは名前が売れている病院に行けば問題はないと考えられていたようだ。しかし、そういう風潮によってヤブ医者と言われている医療機関が何年にも渡って地域に君臨してきたのも事実だ。田舎に行くとそう言う風潮はさらに強いと言う。ヤブ医者に関する都市伝説がどの地域でも、まかり通っているのはそういうとこかららしい。

 しかし、最近では少しばかり状況が変わってきているようだ。何よりも受ける側の意識がかなり変わってきている。そうなってきた理由としては、やはり病院の安全性の崩壊にあるだろう。ここ最近よく報道される医療過誤のニュースを聞いて有名病院だから、大学病院だからと言って安心できるわけではないということが国民一人一人に身にしみて分かってきたようだ。

 腹腔鏡手術というものがある、しばらく前に東京慈恵会医科大学青戸病院などを発端として立続けに医療過誤を出した最新技術である。実は私の父親も昨年末に、腹腔鏡手術を受ける事になっていた。父の場合は腎臓に出来た腫瘍を取り除くためだったが、正直私は気が進まなかった。やはり、最近の事件を見ているのと、病院関係者の話しを仕事がら聞いていたせいだったと思う。

 父の手術は幸いと言うべきか、癒着がひどかったせいもあって開腹に切り替えられ無事に終わった。
 慈恵医大の場合は手術を行ったのが30代前半の医師であった。ある外科医が言うところによると一番医者として油が乗っている時期であるという。その年代の医師が起こした事故だと言う事が今回の一番大きな問題だと思われる。

 福島県にガン専門病院として有名なT病院と言うところがある。ここの理事長はおそらく日本中で知らない人がいないくらい有名な人である。私は昨年この病院に取材で訪れた。その際、T病院の院長に今回の事件について聞いてみた。院長は言葉を選びながらではあるが、今回の問題点について語ってくれた。

 院長が言うには、最新医療を行う事は大学病院である以上必ずやるべき義務であるという。しかし教育、研究に重きを置く大学病院であっても患者へのインフォームドコンセントを怠っていいわけではないという。つまり、患者に完全な同意を得ないまま一方的に押し付けることがまかり通っている自体が憂慮すべき事なのだと言う。そういうと、おそらく私はきちんと説明しているという医者の反論は多々あると思うが、完全に患者が納得する説明を行っているかどうかは疑問である。インフォームコンセントと言う言葉だけがひとり歩きしているのではないかとおもうが。

 そして、もう一つ院長が危惧していた事が医師の実力の低下であった。慈恵医大の場合を考えると腹腔鏡から開腹に切り替えるタイミングを見誤った事が大きな事故を引き起こした。院長がいうにはこれから最新医療はどんどん増えてくる、そして主流はそれに変わっていくだろうということだった。しかし、それに伴ってそれしかできない医師が増えてくる事は恐ろしいと言う。何百例も開腹を行い手術を行ってきた自分達の世代だからこそ、開腹に切り替えるタイミングを体で感じ取れる。しかし、怖いのはどこでそれを見切れるか分からない医師が増えてくればこのような事故は数限り無く増えてくる。

 最新の技術に医師の実力が追い付いていないことが怖いと、最後に院長は言っていた。
 これからの医療は文字どおり患者が主役でなければならないと思う。そのためにも常日頃から医療に無関心でいることだけはさけておいた方がよさそうである。


横浜フリューゲルスを思い返す
 昨年の天皇杯サッカー決勝はセレッソ大阪とジュビロ磐田が激突した。意外な事に、ジュビロが決勝に進んだのは前身のヤマハ以来22年振り2回目ということで、Jに入ってからは初めてということらしい。これだけ強いチームがここまで残るのが難しいということは、一発勝負のトーナメントといものの恐ろしさを如実に示している。まけたら終わりというプレッシャーは想像を絶するものであろう。

 が、しかしその困難に敢然と立ち向かい、すべてを乗り越えたチームがあった事をおぼえているだろうか。1998年元日、そのチームはすべての敵と闘い、そして勝利しその日を境に消えていった。

 そのチームの名前は横浜フリューゲルス。Jリーグ開設以来唯一消滅したチームだ。

 チームの消滅に至る経緯については、今さら語る事でもないだろうが、簡単に説明しておく。横浜フリューゲルスの親会社は全日空と佐藤工業を母体とする合同出資会社であった。御存じのように佐藤工業はゼネコン不況のあおりを受けて2001年に倒産している。その徴候は当時も顕著で、佐藤工業は横浜フリューゲルスのスポンサーから撤退を余儀無くされたのである。 

 このフリューゲルス問題を語ると、「佐藤工業」が抜けた事を第一にあげる人がいる。責任は佐藤工業にあると言う人も多い。しかし、それは間違っている。佐藤工業がスポンサーを抜けたことは経営状態を考えればやむを得ないことであり、それ自体は非難すべき事ではない。本業を潰してまでスポンサー業に力を入れる事は本末転倒である。加えて、フリューゲルスの親会社「全日空スポーツ」はその名の通り、出資率は全日空の比率が多かった。そのため、「全日空スポーツ」の社員は、佐藤工業の出向者よりも全日空の出向者の方が力を持っていたという。そのため、フリューゲルスが合併を決めたとき、佐藤工業出身の社員は当日までその情報を知らなかったと言う。

 つまり、この合併劇は全日空の独断ですすめられていたと言う事になるのだ。
 フリューゲルスは「消滅」した。現在フリューゲルスの名を継ぐチームがJには2つある。ひとつは合併の相手先「横浜F・マリノス」そして、もう一つは「横浜FC」である。
 しかし、この二つはどちらもかつてのフリューゲルスとは別物でしかない。マリノスは言うに及ばず、横浜FCも全く違うものだ。少なくとも横浜FCについては、設立当初は期待もしていた。しかし、その後の活動を見ていて私は幻滅し、今は応援していない。横浜FCのフラッグもたんすの肥やしになってしまっている。

 こう感じているのは私だけではないらしく、フリューゲルスの「消滅」後、応援するチームをなくしてしまったサポーターも数多くいる。やはり、かつてのフリューゲルスほど愛せるチームを作る事は難しいとしか言い様がない。


追記
 横浜フリューゲルス「消滅」直後、某番組である有名俳優が「結局、客が入らないからそう言う事になったんだろ」と言うような事を口にしていたが、これは事実誤認も甚だしい。当時のフリューゲルスの集客率は浦和レッズについでリーグ2番目で、客は入っていたのだ。つまり、客は入っていたのにそういう結果を引き起こした事はあくまでもフロントの無能によって引き起こされた杜撰な運営方針に他ならないのだ。

追記2
 もう一点、横浜フリューゲルスは合併が決定してから一度たりともまける事はなかった。リーグ戦から天皇杯決勝まで勝ち進み、ついに1998年元日天皇杯を勝ち取ったのだ。これについても、「去年からそういう試合をしていればこんな結果にならなかったんじゃないか」と無責任な発言をする人が当時良くいた。知識人といわれている人もそう言う事を言っている人がいたが、呆れてしまう。前年フリューゲルスは最後まで優勝争いを繰り広げていたし、天皇杯では準優勝している。その前年もそうである。確かに、98年は中位でもたついていた時期もあったが、少なくとも弱いチームではなかった。
 それよりも、明日からどこでプレーするかも分からない状況で最後まで戦い抜いた選手の精神力を賞賛すべきじゃないのかと今でも、思う。