コバルト
・第一話(11/15)
第一話 |
跡見里名。 その名前は僕にとってかけがえのないもの。僕が初めて恋をした人の名前で、僕を初めて愛してくれた人の名前。僕達は青春の同じ時の中を、ただひたむきに走り続けた。若さ故の無謀といってしまえばそれまでだけど、僕達はそのひとときを精一杯走り抜け、多くのものを傷つけてきた。しかし、その時の僕にはそんな事を振り返る事余裕なんてどこにもなくて、たったひとつ彼女の笑顔だけを守り抜きたかった。 跡見里名。 僕の青春そのものの名前。そして永遠の十八歳。 僕だけが十五年先の世界に辿り着いた。 窓際の枯れかけたサボテンの視線を感じて、僕は手をとめた。知り合いの編集者が僕の部屋の殺風景さに呆れてくれたものだ。サボテンは世話が楽ですから、などと言いながら僕の部屋の一番日当たりがいい場所に勝手に据え付けてくれた。僕が望んだ物ではなかったのだけれども、一応唯一の同居人となった彼女を無惨に扱うこともできずに今でもぽつんとそこにいる。 それが一週間前から枯れ始めていた。不精なりにきちんと世話はしていたつもりだったが、なぜか日に日に力がなくなっていた。サボテンは100年は死なないと聞いた事があった。100年生き続ける生命力が、僕の前で静かに消えようとしている、それが信じられなかった。 僕は机から離れると、そっと彼女に手をかざした。僕の手から出る生命力を彼女に分け与える事ができないかと思った。しかし、すぐにその考えは頭から消えた。命を分け与える事などできはしない。僕は思い知ったはずだ。 僕は軽く彼女の頭を叩くと、再びキーボードに向かった。書きかけの小説は、ほとんど真っ白な状態だった。昨晩まで書いていた冒頭部分を二時間前に一気に削除した。締め切りが迫っているのは分かっていたが、どうしても納得できなかった。この有り様をみたら担当のウブキ君はひっくり返るだろうか。随分長い間打ち合わせた内容を一気に消してしまったのだから、驚くとしても無理はないだろう。僕は彼が慌てているところを想像して悪いとは思いながらも少しおかしくなった。 僕は電話を取ると彼の携帯番号をダイヤルした。時間は深夜2時55分、いい頃合だ。しばらくコール音が続いた。留守電にはしないでくれ、と彼には言い含めてあった。彼とは確実に連絡を取れるようにしておく必要があって、彼の都合を鑑みるつもりは毛頭なかった。コール音は70回程続いた、時間にして約三分、ようやく電話の向こう側から声が聞こえた。 「やぁ」 僕が声をかけると、思った以上にハッキリとした声がかえってきた。 「どうしたんですか、こんな時間に」 相変わらず、間の抜けた事を口にする。この時間が僕の一番の稼動時間だと言う事を分かっていないらしい。もっとも、こういったとろ臭いところが僕は気に入っている。打算の匂いがしないつき合い、中々そういうやつはいない。 「締めきり、二日延ばしてもらえないだろうか?」 唐突に口にした言葉に、かれはえっと口にして一瞬黙り込んだ。無理もない。僕でも困る。大体の編集者はなんだかんだと理由をつけて、絶対に許さない。 「二日ですか‥二日ですね‥」 ウブキ君はぶつぶつと呟いている。紙が滑る音が聞こえるところを見ると手帳をめくっているようだ。本来の締め切りは一週間後、二日のばして九日後。かなり余裕ができる。 「わか‥りました」 暫くして、彼はそう言った。僕は、ありがとう、と口にしてさっさと電話を切った。理由を言うつもりはない。彼もそれは分かっている、僕が二日のばしてくれと言ったならばそれ以上のびる事がない事も彼だけは理解している。ありがたい存在だ。 再び僕はキーボードに向き合った。書くべき事は決まっている。あとはそれをどうまとめるかだ。僕はディスプレイを見つめながら言葉を探っていた。書き出しの一言、それをどうするか。 どのくらい考えていたのだろうか、時計を見るとすでに4時を回っていた。一時間以上もずっと硬直していたらしい。画面の言葉は全くかわっていない。僕は固まったままの指をキーボードから下ろした。肩と首にどっと疲れがのぼってくる。ゆっくりと肩をまわすと、僕は立ち上がった。本格的にスランプに陥りそうな恐怖感があった。書斎を出、キッチンに向かうと冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。冷たいオレンジジュースを飲み干すと、ようやく自分が空腹な事に気付いた。 冷蔵庫の中を覗いてみても食べられそうな物は何もなかった。いつもなら、夜食用になにか入れておくのだけど、今日に限って何もない。恋人でもいれば何か作ってもらえるのかも知れないが、あいにくの独り身、何もできない。 仕方がないので、買い物に行くしかなかった。三分程歩いたところにコンビニがある。おにぎりでも買ってくれば、一晩は持つ。僕はパソコンの電源を節電モードにすると部屋を出た。 |