裏小説

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番外編     ・あとがき                     ▲戻る


〔第八話〕
[第一話]
 奇妙な乗客が乗ってきたのは、二つ目の駅を過ぎた時だった。
 夏休みの臨時列車には殆ど乗客が乗っていなかったせいか、その男性は一際目立っていた。
何気なくホームを見つめていた私の目にその男の姿は飛び込んできた。男は電車の到着に奇妙に驚いていた。何度も自分の持っている時刻表と見比べている。しかし、出発のベルが鳴りだすと慌てたように車内に飛び込んできた。その挙動不振な視線は明らかに異常者のものだった。私は静かに彼の近くを離れ、彼が座った席を斜に覗き込める席へと移った。一つは好奇心から発せられた物だが、もうひとつは警戒の意味でもあった。
 その男はきちんとスーツを着込んでいた。しかし、スーツを着なれている感じではなかった。初めてスーツに袖を通した新入社員、そんな感じだ。もっとも新入社員と呼ぶには、幾分老けた感じではあったが。
 男は席に付くなり上着を脱ぎ、座席に放り投げた。しわになる事など全く気にしていないようだ。私が見ていると、ネクタイまで外した。さらにボタンを胸元まで外し、胸元に冷気を送り込んでいる。その胸元から青白い肌が覗いている。緩み切ったその肌は嫌悪感以外呼び起こさない。男はいきなり立ち上がった。私は慌てて目を逸らす。無意識に身体を縮めて、彼から隠れるような姿勢をとった。別にそんな事をする必要はなかったのだけれども、その男に何故か気付かれてはいけないような気がした。
 彼はぶつぶつと何かつぶやき、あたりを見回すとまた席に付いた。どうやら私が観察していた事には気付いていないようだ。私はほっとして再び彼に目をやった。彼の視線は今度は窓の外に向いている。表情は分らないが、全くやる気というものが伝わってこない。この男どこへいこうとしているのだろうか。
 そうしていると、突然誰かが彼に近付いていった。私は急に背筋が寒くなった。彼に近付いていったのは、 ピンクのワンピースを来た少女だった。しかも、そのワンピースはけばけばしい蛍光色で、見ている方を苛々させるような恐るべき物だった。しかも、手荷物は何もない。明らかにおかしい。
 異常者は異常者を引き付けるのだろうか。彼女の視線も落ち着かない。私が固唾を飲んで見守っていると、そのピンクの少女は、小太りのスーツ男にどもりながら、声を掛けてしまった。

                                  
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[第二話]

 知り合いなのだろうかと思ったが、スーツ男は怪訝そうな顔をしている。私は聞き耳をたてた。よくは聞こえないのだが、どうやら、そのピンク女はスーツ男が座っているボックスシートに座りたいらしい。
どうも、その席を譲れと言っている様だ。当然、スーツ男も戸惑っている。
 どう答えるのだろうと思っていると、突然ピンク女が体勢を崩した。
カーブにさしかかった列車が大揺れしたせいだろう。すると、スーツ男は当然のようにそのピンク女を抱き抱えた。同時にピンク女の髪がスーツ男の顔をかすめたのだろうか、男は気持ちの悪い喘ぎ声をあげた。私の眉間に深いしわが刻まれる。
 さらに、スーツ男は暫くピンク女を抱き抱えたままぶつぶつとつぶやいている。女は女で髪を耳にかける仕種をくり返すだけで、離れようともしない。
「なんなんだ、この電波どもは」
 口にはだしていないつもりだったが、無意識につぶやいていたらしく私は慌てて顔を背けた。
 しばらくして、そろそろと視線を戻すと、なんとピンク女がスーツ男と同じボックスに腰掛けている。
 なんだよ、この展開。私はこの状況にだんだんとはまりつつあるようだった。
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[第三話]

 目的の駅まではあと10分程かかりそうだった。
私は、車窓から見える風景を眺めながら二年前に亡くなった妻の事を思い出していた。妻はこの夏の香りが好きで、新婚当初は二人でよく山歩きなどをしたものだった。あの頃が一番幸せな時だったのかもしれない。私はいつの間にか、忙しさを言い訳にして、 彼女との時間をおざなりにしてきた。そして、私が知らないうちに彼女は病魔に侵され、気付いた時にはもう手の施し用はなくなっていた。
 それ以来、後悔の連続だった。亡くなった今、彼女のいない生活がこんなに寂しいものだったのかと痛感している。こうして彼女の墓参りに向かう事が私にできるたった一つの愛情表現になってしまった事が我ながら情けない。
 そんな事を考えながら、私は例のボックスシートに目をやった。相変わらず、奇妙な二人組は向かい合って座っている。女は少しうつむいたようにしているが、男はなにやら薄笑いを浮かべて女を嘗め回すように見つめている。 その視線に私はまた嫌悪感を覚えた。あれは女性を「商品」もしくは「セックスの対象」として見る目だ。
 二人はぽつぽつと話をしているようだが、小さな声のせいではっきりとは聞こえない。
男は自分に陶酔しているようだった。私は敢て聞き耳をたて、何を話しているのか聞いてみた。
「その人は本来なら私と同じ年で、結婚の約束もしてた人なんです」
男はそう言って、女の反応を伺っている。どうやら、婚約者が亡くなった話をしているようだ。彼も私と同じように、最愛の人を失っているのかもしれない。
 しかし、私は直感的に彼の話が嘘か、妄想だと確信した。私が妻を失った時、間違っても彼女の死を匂わせるような話しは出来なかった。一年以上経った今でも、自分から話をする事はできない。
それは思い出すのが怖いのと、彼女の死を受け入れる事が出来ない臆病さからだった。間違っても、電車で乗り合わせた初対面の人間に話など出来ない。
 確信すると同時に、彼に対する嫌悪感は最高潮に達した。彼は話しながら、自己陶酔に浸っている。 恐らくその話を餌にして、あわよくば女でも引っ掛けようとしているのだろう。これが初めてではないかもしれない。 悲劇の主人公になりきり、人の気持ちを操作する卑怯者、恐らくこれが彼の正体だろう。
 私の確信を裏付けるように、男はピンク女から彼氏がいるという話を聞くと、大袈裟に驚いた。 確実に落とせると思っていたようだ。さらに、それっきり彼女との話もやめた。 ほぼ空席の列車でわざわざ乗り合わせた二人なのに、会話は何もない。 男はピンク女から全く興味を失って、またやる気のない表情で窓の外を見つめだした。

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[第四話]

 目的地の駅に到着した事を告げるアナウンスが流れ、私は席を立った。あの男が乗車してからの数十分はあまり愉快な経験ではなかったが、私に直接被害がなかった事を幸運だと考え忘れる事にした。
 列車は静かに停車した。ドアが開き熱気が車内に流れ込んでくる。日ざしの中に妻の笑顔が見えはしないだろうか、と淡い期待をしてしまった自分がいて、まだ立ち直っていない弱さにわずかに苦笑した。こんな姿を彼女が見たらどう思うだろうか。
 そんな思いにかられていると、先頭車両のドアからけたたましく誰かが飛び出してきた。見ると、締まりかけたドアに挟まりそうになっているのはあのスーツ男だった。私はげんなりとした。まさか、降りる駅まで一緒だったとは。
 男は電車を降りると、しわくちゃになったスーツを申し訳程度に手で叩き、あっさりと着込んだ。この暑い中なぜ上着を着たのか分らなかった。だらだらと額から汗を流しながら、無理矢理スーツを着込む姿は醜悪そのものだった。しかも、なぜかネクタイは締めていない。ラフなスーツの着こなしだとしてもひどすぎる。
 私のそんな思いも知らず、相変わらず男は一人で何かつぶやいている。私の後を尾けられるのはあまりいい気持ちはしなかった。ホームの端により、電話をかける振りをしながら彼を先に行かせようとした。そして、彼の行動に目を配っていると、男は何かを思い出したようにいきなり振り返る。そして、何を思ったのかすでに発車した列車を探すようにあたりを見渡している。私は背中に寒気を感じた。早くこの場を離れた方がいいような気がしたが、あまりにも男に近付き過ぎていたため動くに動けない。 
 しばらく呆然としていた男はまたもごもごと口の中でつぶやき、私の横を通り抜けていった。「暑さのせいだったのかな」という言葉だけが聞き取れた。彼が何を見て、そう思ったのかは分らない。ただ、明らかに私の姿は見えていなかった。
 男はふらふらとホームを歩き、改札を抜けた。私はその30M程後を歩いていた。ひさしぶりの妻の墓参を邪魔されたようで気分が悪かった。
 駅を出た男が一目散に向かったのは、古ぼけた喫茶店だった。遠くから見ても明らかに営業はしていない佇まい。男はその喫茶店を窓から覗き込んでいる。店内はテーブルも椅子もなく配管がむき出しになっている、田舎駅によくある風景だ。 男は入り口に掛けてある改装中の文字に目を止めると、舌打ちをしてやっと離れた。
 次に男が足を向けたのは小さな花屋だった。中には若い女性店員の姿があった。私はさっきの車内での男の様子を思い出して嫌な予感がした。男は店内を食い入るように見つめている。 私はそっと彼の近くに寄った。何かあったらすぐに飛び出すつもりだった。 しばらくして男はその若い女性店員に声を掛けた。
「えっと、この花をありったけ」
男が指差したのは白い百合だった。小さい花屋とは言ってもゆうに50本はある。持てるはずがない。
当然、店員も困惑して尋ね返している。
「まぁ片手で持ちきれる分くらいでいいんですけど」
男はにやにや笑いながら答えている。さっきの話と矛盾している事に気付いていないようだ。片手で持てるありったけ、 しかもかさのあるユリ。店員に対する嫌がらせだろうか。若い女性店員は一瞬困ったような顔をしたが、分りました、と答え花をまとめ始めた。
 その時男の表情が変わった。さっき電車の中でピンク女に嬉々として婚約者の死を語っていたあの陶酔し切った顔だ。 女性店員の後ろ姿を見つめながら、怪しい表情を浮かべている。口元は薄笑いを浮かべ、女性の腰からヒップのあたりをなめましている。最低だ、この男。もしかしたら、最初に喫茶店に行ったのも、 女性店員がいないかと思っての事じゃないのか。それが閉店していたところに、花屋の看板とこの女性が見えたので慌てて入ったに違いない。
 この男何者なのだろうか。この時に至って、それが急に気になりだした。ただの変態なのか、それとも高度な目的があってやっていることなのか。もしかしたら、某国のスパイとか。
さっきのピンク女は連絡員で、あの電波な会話は暗号。そして、目的は若い女性の拉致。
 暑さのせいだな。
 私も奇妙な想像に取り付かれつつある。男が花屋を出たのを確認して、私はタクシーを止めた。

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[第五話]


 タクシーに乗り込み、霊園までと告げると、私はやっと一息付いた。
お盆の時期に近い事もあって、けっこう繁昌しているようだ。ひっきりなしにタクシーは入ってくる。こんな炎天下の下歩いてる人間などいはしないだろう。 霊園の近くには、駐車場もあるし、電車で来る人間もどちらかというと少数派なのだが。
「お客さん、霊園だったら、次の駅で降りたらよかったのに」
初老の運転手は笑いながら、私に話し掛けた。
「え、そうなんですか」
 運転手は笑って、あっちからなら歩いて5分ですよ、と続けた。 電車で来るのは初めてだったせいで、地理的なものを把握していなかったせいだろう。 私は苦笑して、たまにはいいですよ、と強がりにもならない言葉を口にしていた。
「あ、また来てやがる」
唐突に声をだしたのは運転手だった。舌打ちした彼の視線を追うと、なんと歩いているのは例のスーツ男だった。追い越しながら視線をやると、相変わらず口元でぶつぶつとつぶやいている。
「彼、知ってるんですか?」
今までの出来事を思い出して、私は尋ねた。すると、運転手は苦々しそうに眉を顰めて、話しだした。
「このあたりのやつならみんな知ってますよ。毎年、この時期になるとふらふらとやってくる名物男ですから」
毎年、私は耳を疑った。彼の婚約者は半年前に死んだはずじゃなかったのか。
「霊園に行く途中に丘があるんですよ、そこにどっからか木切れ持ってきて、勝手にたてたりとかして、みんな迷惑してるんで」
「木切れですか」
私の言葉に彼は苦笑した。
「墓なんですって、あいつが言うには」
私は絶句した。墓を勝手にたててるのか。そして、同時に電車内で感じた寒気に再び襲われた。
 運転手の話をまとめると、あのスーツ男が来るようになったのは3年程前からだという。 ある日、公有地である公園の丘の一角に汚い木切れが突き刺してあったという。近隣の住人が近寄ってみると、「ゆいのはか」とたどたどしい字で書いてあったという。 もしかしたら、死体でも埋めてあるのじゃないかという話になって、警察まで出動する大騒ぎになったらしい。結局、死体は出なかったものの、非常識な行為で地域全体が振り回されたと言う事だった。
「金魚の墓じゃないんだから、勝手にたてて何がしたいんだか」
 運転手はもううんざりだと言う顔をして、首を振った。
 私は電車の中での、また駅前での彼の行動を思い返していた。
自己陶酔に浸ったあの顔。恐らく、あの顔をして薄笑いを浮かべながら、「墓」をたてているのだろう。
もしかすると、あの男は本当に精神を病んでいるのかもしれない。一体、何が彼をそこに突き動かすのだろうか。婚約者を失った悲しみなのか。
 私は妻を失った時、確かに世界が崩壊するかのような衝撃を覚えた。しかし、その悲しみは私を駆逐しなかった。彼女の死を認める事は確かに辛かったが、
生きていると妄想する事は彼女の人生を否定することに他ならない。 彼女の死を受け入れて生きていく事が、私の彼女に対する最後の愛情表現なのだ。
 彼にはそれができなかったのだろうか。もしかしたら、いまだに失った婚約者が生き返ってこないだろうかと妄想しているのではないだろうか。 いや、そんなはずはない。彼は婚約者の死を自分の為に利用しようとしているだけだ。
悲劇に浸る事自体が目的で、もはや彼女への愛情は存在していない。
 彼は異常者だ。私は改めて確信した。
 その時、私の目に再び嫌なものが移った。けばけばしい蛍光色、しかもピンク。 私はその横を通り過ぎながら、電車の中で見た向かい合った二人の姿を思い出した。

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[第六話]
 霊園の近くの駐車場で私は車を降りた。さっき見たピンク女の後ろ姿がちらついて、あまりいい気分ではなかった。
私は強引に記憶を振払い、歩をすすめた。
 夏の日ざしは、毎年変わらず私の肌を焼く。私は霊園の入り口で花と線香を買い清掃用具を借りると、妻の眠る場所へと向かった。二年経ってやっと穏やかな気持ちでこの道を歩けるようになった気がする。
「自分の家を構えた以上、私達と同じお墓に入らなくていいからね」
ふと、母の言葉を事を思い出した。あれは結婚したばかりの頃だったろうか。母は私達に真の意味での自立を求めていたのかもしれない。 家にとらわれる事なく歴史を紡ぎだすための新しい区切り。そして、覚悟。必死に人生を生き抜いた母だからこそ達した結論なのかもしれない。父を早く亡くした私はほとんど母親一人に育てられた。 並大抵の苦労ではなかったと思う。私が覚えている母の姿はいつも後ろ姿で、私はその背中を追い掛ける事すら出来なかった。
 その母が言った言葉。その真意を理解するのには長い時間を要した。
 夏草の匂いをくぐり抜けて、私は妻の元に辿り着いた。周囲に並ぶ墓と比べても一際新しい墓石。まだ、私の顔を反射するほど輝きを残した墓石。それは過去が遠くに過ぎ去っていない現実を私に突き付ける。
「来たよ」
 私はその墓石に軽く触れてつぶやいた。ひんやりとした冷たさが伝わってくる。
 母が私に遺したたった一つの遺産が、この新しい墓だった。妻が死ぬ一年前に私は母を亡くした。 その母が最後に遺した財産。
 この墓には妻以外入っていない。本来なら、私が先にここに入るべきだった。しかし、先に入ったのは妻だった。誰もいない狭い部屋に一人きりの妻の孤独を思うと胸が痛くなる。
 妻が生き返ってこないだろうかと思いを巡らせた事も会った。しかし、それは望んではいけない事だった。三文小説でよくある最愛の人間が生き返る話。わずかな時間だけ蘇る最愛の人の話。私も思い巡らせた、現実を受け入れたくないばかりに。しかし、それは愛情ではない。相手を思い遣る事のない自己満足の極みでしかない。
 死を受け入れると言う事は、その人が生き抜いてきた人生を受け入れてやる事に他ならない。 理不尽にも命を奪われた人だってそう。人が歩んできた道がそこにあれば、遺された人が何かを感じ取る。 悲劇的な死をくり返さないために、或いは、新たな命を守るために。世界は遺された人間が回していかなければならない。それは遺された人間、生きている人間の使命だ。それを死んだ人間に求めてはいけない。人が生き返ることなどあってはいけない奇跡なのだ。
 乾いた墓石に水を掛け、一年間つもったホコリを流し落とす。こんな時にしか来れない不徳を詫びながら私は手を合わせた。私も何年生きられるか分らない。 近いうちに妻の側に行くかもしれない。しかし、その日が来るまでは一生懸命生きていくよ。
そんな事を思いながら、私の贖罪の日は終わろうとしていた。

 何となく歩いてみたくなった。タクシーの運転手は、一つ先の駅なら歩いても時間は掛からないと言っていた。私は、霊園前にバケツと清掃用具を返却すると来た道とは反対方向に歩き出した。爽やかな夏の風がすり抜けていく。
 ふと、さっきの運転手の話を思い出した。丘の上の金魚の墓。今年も立っているのだろうか。
スーツ男は今年も来ている、私も見た。そして毎年立てられている謎の墓。そこに何の意味があるのか分らないが、彼の病んだ心を示すものに間違いはあるまい。

 そして私は見てしまった。その古ぼけた木切れを。そして、その前で抱き合っている二人組を。さっきまでの感慨を一気に吹き飛ばすようなあまりにも醜悪な光景。 私は慌てて木陰に隠れた。別に私が隠れる必要はないのだろうが、奇妙な羞恥心を私が感じてしまっている。 そっと、顔を覗かせるとそこにいたのはまぎれもなくあのスーツ男と、ピンク女だった。 私が電車の中で見たそのままの二人が、からみ合ったまま立ち尽くしている。
 立てられたものが墓だという。その前で、死を、或いは生を冒涜する行為をくり返す姿に私は今まで以上に怒りを感じていた。 どうしようもない思いに駆られて彼等に向かって足を踏み出したその瞬間、誰かが私の肩を掴んだ。
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[第七話]

「雪絵さん、亡くなったのか」
 その男は静かにそう言った。私がゆっくり頷くと彼は、そうか、とぽつりとつぶやいた。
 神(じん)圭介
 医学部時代の私の友人。そして、私と妻を巡り合わせてくれた恩人だった。 十年ぶりの再会が妻の眠る霊園の近くだった事も奇縁と言うべきか。
「あっという間だったよ。医者が自分の女房見殺しにしたなんて、笑い話にもならない」
 神は黙って私の肩に手を置き、お前は悪くはない、と強い口調で言った。
 さっき、私を引き戻した時のような強さではなかった。振り返り顔を見合わせた時、私達は同時に驚嘆した。奇妙な正義感に突き動かされて、目の前の奇人たちに向かって行こうとした私を止めた手、 それがかつての友人の手だったとは。 私達は木陰に隠れたまま、思いがけない再会に喜びあった。
「あのコは俺の患者なんだ、申し訳ないがしばらく黙って見ててくれないか」
 神の言葉に私は軽く頷いた。私達は、彼等を少し離れた木立から観察しながら、少しずつ近況を語った。
 神が精神医療の分野に進んだ事は知っていたが、どこにいるのか全く分らなかった。 全く違う専門を選んだこともあって、ほとんど接点を持てず、妻の死さえも伝える事ができなかった。 今日、こうして会えたことが妻の導きのようだ。
 私達の目の前でピンク女と、スーツ男はまだ抱き合っている。私と会話を交わしながらも、神はその二人に厳しい視線を向けたままだった。
「男性も君の患者か」
 私の問いに彼はゆっくりと首を横に振った。
「私の患者はあのコだけだ」
 神の答えに今度は私が首をひねった。二人とも、彼の患者ならば今までの行動も分る気がしたのだが。
「二時間だけ、外出を許可したんだ。どうしても、行きたいところがあるって言うから」
 神は少しデリケートな問題なんだけど、と前置きして私に語った。ピンク女は神の勤める病院に半年前から入院しているという。 半年程入院させて、薬物治療とグループ療法で症状を緩和させる事ができると言う事だった。 神の計画通り、彼女の治療は順調に進んだ。そして、今日初めて一人で外出が許可されたらしい。 もちろん、神が同行すると言う条件つきで。
「随分、あのコに入れ込んでるじゃないか。何か理由があるのか」
 主治医自ら、こんな面倒な事をするなんて普通じゃありえない。
こんな事は、精々看護師か介護の人間に任せておけばいい。
「理由はあの男だよ」
 神が吐き出した苦々しげな台詞が、彼の苦渋をあらわしていた。彼はそれ以上何も言わない。 守秘義務がある以上、何も話せないのだろう。私もこれ以上何も聞けるわけがなかった。 しかし、このまま放置するわけにもいかない気がした。
私は暫く考え、タクシーの運転手から聞いた事を神に話すことにした。
「ゆいのはか‥そう言ったのか、その運転手は」
 私の話を聞くと、神は驚いたような表情を見せた。とっくに知っていると思っていただけに意外な反応だった。
私が間違いない、と答えると神は今までよりも深く考え込み始めた。眉間に深いしわを刻んで考え込んでいる。 学生時代、何度もこういう風景を見た。考え込むと、周りが見えなくなるくせは変わっていないようだ。こういう状況にも関わらず、私は少しだけおかしかった。
 私は再び例の二人に目をやった。気付けば男は泣いている。醜悪な泣き顔だ。何を話しているのか分らないが、男はひっきりなしに女に話し掛けている。じっと見ていると、男は花束を渡したようだった。先ほど下の花屋で買ったあの白いユリだ。炎天下の中振り回してきたせいだろうか、すっかり生気をなくしてしまっている花が哀れだった。
「なぁ、医者としてお前の意見が聞きたいんだが‥」
しばらくして、神は重い口を開いた。
今日私につきまとった奇妙な出来事が、ようやく終わりに近付きつつある気がした。
日も随分と傾きつつある。

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[第八話]
「降りそうだな」
 見上げると今にも振り出しそうな雲行きだった。さっきまでの好天が嘘のようだった。
 神はまだ二人から目を離そうとしない。私と話をしながらも、視線は二人に向けられたままだ。
神はその姿勢のままポケットからタバコを取り出すと、鼻先で火をつけた。銘柄はセブンスター、学生時代とかわっていない。ため息をつくように煙りを吐き出すと、私に顔を向けた。
「最近じゃ、タバコを吸う場所すら奪われてな。病院も家も完全禁煙、落ち着く場所すらない」
神は口元を少しゆがめて、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「副流煙を気にする奴は多いからな」
「そんなつまらんことを気にするやつは、タバコ以外の健康管理を無視して早死にするさ」
神はいまいましそうに首を振った。そしてまた口を噤んでしまった。
 私に意見を聞きたいと言ったまま、彼は話をしない。恐らく自分の中でまだ整理がついていないのだろう。 私は彼をせかさず、何気ない会話を続けていた。彼の立場を考えると無理もない。
 しばらくの沈黙を経て、神は口を開いた。
「生きている人間を、死人に仕立て上げるやつをどう思う」
「どういうことだ」
問いの意味が分からずに尋ねかえすと、神は丘の上の木切れを指差した。
「ゆいのはか、ゆいは彼女だ」
 意を決したように神はぽつぽつとかたり出した。
 神の話を要約すると、スーツ男はピンク女と文通を通じて知り合ったらしい。当時は彼女も健康で、一人の友人として男とつきあっていたと言う。
「それだけなら、微笑ましい話ですむところなんだけどな」
 神がそう言うように、状況は少しずつかわっていった。いや、かわっていったのは男の精神状況だった。 手紙の文面がいつの頃からか、怪しさをましていった。男は彼女の恋人ではなかったのだが、 文面はいつの間にか愛の言葉に満ちあふれ出した。結婚の約束まで一方的に書き綴られていた。 しかも、結婚を申し込んだのは彼女からと言うことにすらなっていた。
 その時になって、彼女は初めて異常に気付いた。男の妄想を打ち消すような手紙を何通もおくった。 しかし、それは全く無視された。しかも、彼女の言葉は曲解され、新たな愛の言葉にかわり、男はさらに妄想に身を浸らせた。 不安は一気に恐怖にかわった。彼女は最後に別れの手紙を彼におくり、関係を断つよう迫った。
 しかし、それが無駄である事は彼女にも分かっていた。彼女を恐怖させたのは、自分の住所が彼に分かっている点、 自分を特定することが容易だったことだった。
 男からの手紙はとまることはなかった。それどころか、届く手紙の量が一気に増えた。
一週間に一度の手紙は、毎日届くようになり、ひどい時には一日に二通も届くようになっていた。 彼女は生活のすべてを恐怖に支配された。壊れるのは時間の問題だった。
「これがその手紙だ」
 神は私に茶色がかった紙切れを手渡した。彼女が握りつぶしたのだろうか、しわくちゃになったあとがある。私はそれを受け取ると、開いた。そして、私は愕然とした。便箋一杯に小さな字でびっしりと書き綴られた言葉。近くで見ないと、字であるとすら認識できない、ひとりよがりな手紙。
「あのコは真面目だった。それだけに誰にも相談できず、そして壊れた」
 神は唇を噛み締めた。私はその視線に怒りを感じていた。どこかで見たような強い怒り。
そして、私は気付いた、神の怒りのわけを。
「神、あのコは」
私がいいかけた言葉を遮るように、神はタバコを投げ捨てた。
「神 結依 私の娘だ」
いつの間にか雨が降り出していた。

 ゆい、きみが僕の事を愛してくれているのはよくわかっているよ。
 多分、ぼくから離れたいというのも、自分が僕にふさわしくないってことを悲観してのことなんだろ。でも、そんなことなら気にしなくてもいい、僕は君がどんな人間だろうと愛してあげるから。 君が悩んでること、たとえばびょうきがちだということかな、そんなことなら気にしないでいい。
 それは個性だから。君の個性なんだから、そのまままるごと愛してあげるよ。

書き綴られた意味のない言葉の羅列。その言葉を眺めながら、私は神の苦悩を思った。 しかし、なぜそんな男に彼女をあわせようとしたのか。それが不思議だった。 私は妻を亡くした時の自分の無力を思い出した。立場こそ違え、神も同じ思いに縛られているのだろう。
今度は私が神の肩に手を置いた。 私の気持ちを察したかのように、神の口元が幽かに動いた。
「すべては生きるためだ」
静寂の中、雨音とその言葉だけがこの空間に響いた。

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[最終話]

 その瞬間、ピンク女、いや結依の右腕が大きく唸った。
体を引いたかと思うと、その反動を一気に跳ね返すように突き出した右腕は、見事に男の左顎を捕らえていた。 それはまさに電光石火の一撃で、私も神も制止するどころか飛び出す事すらできない一瞬の出来事だった。 男は全く警戒していなかったらしく、その一撃をまともに受けた。飛び出した私達が見たものは、膝からゆっくりと崩れ落ちる男の後ろ姿だった。
「大丈夫か」
神は結依に駆け寄ると、背中に手をまわした。父の手に安堵を覚えたのだろうか、彼女の膝からも力が抜けたように見えた。しかし、それをしっかりと支える神の手は力強かった。濡れた地面にだらしなく横たわる男とは対照的な姿に私は安堵した。私は倒れている男に近寄り、始めて彼の顔を間近で見た。青白い不健康な顔だった。 薄くそり残したヒゲあとが浮き上がって無気味にさえ見えた。
「雨やませろ、って言ったの」
結依の声に私は振り返った。肩を震わせながら、神の腕の中で彼女は震えていた。
「星が見たいから私に雨止ませろって」
唇を噛み締めるように彼女は吐き出した。私は彼女の顔もここで初めて見た。言葉は震えていたが、いつのまにか瞳に力が宿っていた。神は彼女をしっかりと抱き締めてた。がんばったな、と囁いているのが聞こえた。
 私は再び男に目をやった。視線がうつろだった。私達の姿は見えていないようだ。意識はあるようだが、起き上がってくる気配は見えない。放っておこうかとも思ったが、一応の手当てだけはしておこうと思い直し、男に近付いた。
「‥約束の星、せっかく見れると思ったのに‥」
その時男が呟く声が聞こえた。囁くようなか細く、そして淀み切った声。不快だった。
 私は男の首筋に手を当て脈を測った。正常だった。私が手を当てても何の反応もない。
「起きなさい」
私は彼の肩を軽く揺すった。しかし、彼は動こうとしない。私は彼の両頬を思いきり張った。
その瞬間男は私に抱きついてきた。突然の行為に私は戸惑った。引き離そうともがいたが、予想外に力が強い。 耳もとで彼がゆいの名前を囁いているのが聞こえる。私を彼女と間違えているのか。 もがいている内に右手が抜けた。私は自由になった右の拳を握りしめ、男の脇腹に叩き込んだ。 男が怯んだすきに、両足ではねとばしやっと引き剥がした。
「大丈夫か」
駆け寄ってきた神に右手をあげ、大丈夫だとかえすと、私は再び男に近寄った。男はまたぐったりと倒れ込んでいる。
私は男の左腕をとると、そで口を捲りあげた。
無数の注射痕が、そこにあった。
「神、警察だ」


 男から薬物反応が出た事をあとで聞いた。随分長い間、クスリをやっていたらしく依存度は高いらしい。 しかも以前にも捕まっていたらしく、現在執行猶予中ということだった。 男の奇妙な言動がクスリだけによる物だけかどうかは分からないが、 彼が見ていた世界が幻覚と妄想に支配されていた理由が納得できた気がした。 男は駆け付けたパトカーと救急車の灯を見て狂ったように笑った。 螢だ、蛍だ、と意味不明に泣きわめく姿は最後まで醜悪だった。いずれ社会復帰するのかもしれないが、もう人間としての復活は難しいようにも見えた。
 神はそれを淡々と見ていた。娘が無事に戻ってきた以上、男のその後にはあまり興味はないようだった。 一応告訴はするつもりではいるけどな、と小さく口にした言葉だけが男とのつながりを示すものだった。
「世話になったな」
神が頭を下げたのを見て、私は首を振った。
「案外うちのかみさんが今回の事仕組んだのかもな」
「雪絵さんが」
私は今までの事を思い返していた。妻の墓参途中に出会った奇妙な出来事。かつての親友との再会。そして、その親友の危機。出来過ぎている。
「自分の女房を助けられなくて、ずっと心に引っ掛かってた。でも、やっと霧が晴れたような気がするよ」
 なぜかそう思えた。私は見ていただけで、何もしていない。しかし、神が私と同じ後悔をしないですむと言う事を知った時、やっと妻が笑ってくれたような気がした。
「そうかもな。雪絵さん面倒見よかったしな」
神の言葉に私は微笑みうなずいた。
「結依ちゃん大丈夫か」
「原因を自分の手で取り除いたんだ。問題はいろいろあるが、きっと大丈夫さ」
神も初めて私の前で穏やかな笑顔を見せた。何気ない夏の一日が忘れられない一日になろうとしていた。
見上げると、雨上がりの夜空に満天の星空が広がっている。妻が好きだった夏の匂いを運びながら。私は心の中でありがとう、と呟いた。

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[番外編]
[手紙1]
 父の葬儀では大変お世話になりました。
 最後に時田先生に見取られて父も喜んでいたと思います。
 父は決して長い人生を生き抜いたわけではありません。
しかし、時田先生のようにすばらしい友人を得て最期は幸福だったのではないかと思います。
 
 父の人生を思う時、どうしてもあの日の事を思い出してしまいます。
 時田先生と再会したあの日です。
 親不孝な娘でした。 自分で蒔いた種を刈り取ることもできずに、結局父に多大な心配をかけてしまうなんて。 あの人に付きまとわれている事が分かってからというもの、毎日が恐怖の連続でした。 でも、それを父にも母にも相談することすらできなくて、自分一人で抱え込んでいました。
 結局それがいけなかったことに当時の私は気付くことすらできませんでした。若さとは愚かだったのですね。 それからの事は正直おぼえていません。次に私の記憶がハッキリとするのはあの日の午後でした。
 
 偶然というにはあまりにも出来過ぎたあの日の出来事は、 私にとっても父にとっても忘れることができませんでした。時田先生はいかがでしょうか。 私を抱き締めている父の胸の広さ。頭の中から霧が晴れた瞬間に飛び込んできた父の顔。 今でもはっきりと思い出せます。ただもう、その顔を見ることもできないと思うと寂しさは尽きませんが。
 今はまだ悲しみだけが私を支配しています。
 しかし、父の事を思うならいつまでもこうしてはいられないと思います。
 6つになる娘にあまり辛い顔は見せられませんから。
 
 時田先生、父の友人でいてくださいまして有り難うございました。
 何度も、私達の支えになってくださいまして有り難うございました。
 父に成り変わってお礼を申し上げます。
 いずれ、近い内にお目にかかりたく存じます。

追伸
 風の噂ですが、例の男性が亡くなったことを聞きました。最後まで正気を取り戻すことはなかったそうです。 あの事件で実刑判決を受け、五年間刑務所に入ったあと、一度社会には戻っていた様です。 最後はなぜかトイレの芳香剤を飲み込んで窒息死したそうです。 以前先生がおっしゃっていたように、人間として復活することは最後までなかったようです。
  
                                                                  草加 結依(旧姓 神) 

[手紙2]
 拝啓
 御丁寧な御連絡有り難うございました。
 お父上が亡くなってから、私の中にも大きな穴があいてしまったような感じがします。 まだまだこれからという時に旅立たねばならなかった彼の無念さを思う時、涙を禁じ得ません。
 思えば二十数年、彼とは友人として多くの年月を過ごして参りました。 医師になるために切磋琢磨した学生時代から、同じ時代を生き抜いてきた者として悲しみは尽きず、
今もこうして悲嘆にくれています。一時疎遠になっていた時期もありました。 しかし、こうして最期に立ち会えたということは、余程強い縁だったのだと改めて感じています。
 神君は貴女の事を最期まで心配しておりました。初めてお話するのですが、件の夏の日私と神君が再会した日、彼は恐るべき考えを持っていました。 それはあなたが男に取り込まれるような事があったなら、彼をこの世界から排除してしまう事でした。 幸いにして、貴女は自らの力で彼の呪縛を断ち切る事ができたため、神君は行動に移さなかったようです。 私は彼の鞄の中に短いナイフがあったのを確認しています。
 この事を貴女に話すべきかどうか、私も悩みました。 しかし、あれから十年以上経ち、神君も故人となった今、貴女は全てを知るべきであるという結論に達しました。 誤解を恐れずに言えば、愛故に人は悪魔になることすら厭わないということでしょう。
 
 あの日、貴女が身に纏っていたワンピースの意味を御存じでしょうか。 自宅にかえった貴女はなぜこんな奇妙な格好をしているのか分からなかったでしょう。 しかし、それも神君の考えだったのです。彼はあの男に貴女が連れ去られる事を恐れていました。 それ故に見失っても必ず人目につくあのワンピースを選んだと言います。 私も貴女に関心を抱いたのはあの服の色のためでした。 唖然として貴女に目を止めた事を今でも鮮明に覚えています。 そう考えると、神君の作戦は成功だったようです。少しやり過ぎのような気も正直しましたが。
 私と神君との青春にはピリオドが打たれました。 しかし、私の人生も、貴女の人生もこれからずっと続いていきます。 人生とは振り返る事のできない長い旅であると思います。 神君の魂は自らの心の片隅において、歩み続けていかねばならないでしょう。 間違っても神君に固執してはいけません。
 かつてこういう小説を読みました。若いころ恋人に先立たれた主人公が、死ぬまで独身を貫き通す話です。 彼は新しい人生を歩む事を放棄し、思い出の中に生きる事を望んだのです。 しかし、それで何が残ると言うのでしょうか?彼は恋人を悪霊にして、自分の人生を捨ててしまったのです。 私はそういう話を好みません。
 世界は生きている人間が回していくものです。旅立った人間の事は時々思い出すだけで救われるのです。 いつまでも、その人に固執する事は純愛などではありません。それはエゴです。
 神君が貴女の事を愛していたという事実があった。あなたはそれに応えた。それだけで十分なのです。
 
 一日も早く貴女の心に平穏が訪れる事を心からお祈り申し上げます。
                                             敬具
                                                                        時田 幹彦 

 追伸
 件の男の話ですが、私も聞きました。部屋には芳香剤が異常な程積まれていたそうです。 理由を知るすべはありませんが、匂いが消える事をひどく恐れていたと聞いています。 薬物の影響なのかもしれませんが、そう言う事例は余りないものですから、少し困惑しています。  


[手紙3]

 お手紙拝読いたしました。
 父の思惑を知って非常に驚きました。そこまで思いつめていたなんて‥
 でも、それを聞いて改めて運命を感じました。
 父が計画を止めたのは恐らく時田先生にお会いしたからだと思います。
 時田先生と出会った事で父は冷静さを取り戻した。
 時田先生がまっすぐ男に向かったから、父は私を抱き締める事ができた。
 もし、時田先生がいなければ、父は真直ぐにあの男を刺していたかもしれません。
 そして、父の代わりに先生が殴ってくれたから、私を抱き締めてくれたんです、私はそう信じています。
 
 奇跡というものがもし存在するなら、きっとあの日時田先生を私達に導いてくれたことでしょう。
 それは先生の奥様が起こした奇跡だと今でも私は信じています。
 
 私の人生はまだ続きます。
 いずれまた。
                                                                        草加 結依

    

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あとがき〜馬鹿コントはありません。
 妄想と現実の境目は実に曖昧だと思う。例えば、誰かを好きになった時、その人との未来を自然に想像する。当然その未来は幸せなもので、起こりうる不幸なんて浮かびすらしない。幸せな未来、幸せな生活、それを一気に頭の中で巡らし、一人で盛りあがる。
 しかし、現実はそんなにうまく行くはずもなくて、告白は玉砕、もしくはつき合ったけれど性格の不一致、面白くない事ばかりが見えてくる。結果として、想像していたころが一番楽しかったなんて愚痴をこぼしてみても後の祭り。がっかりしてため息をつくしかない。もちろん、うまく行く事もないとは言わないが。
 人間が生活していくと言う事は、そういった想像と現実の折り合いをうまくつけていく事に他ならない。要は自分が望んだ生活にどれだけ近付けていくかが大切なのだ。時には努力しながらも、ある一定のところでは妥協しなければ生きてはいけない。道を外れたなら、外れた場所から歩き出す方法を見つける必要もある。それを無視してひとりよがりな幸福を誰かに押し付ければそれは愛とは懸け離れた別の感情でしかない。
 
「裏小説」にはその名の通り「表」となる作品が存在する。その作品はweb上で一ヶ月に渡って「連載」されていた。表作品は作者がいうところ「大好評」だったらしいが、誰が読んで「大好評」だったのか未だに謎である。表作品が何かは気になった人は探してみるのもいいが、読んで損した気分になる事請け合いである事を先に言っておく。
 僕が「裏」を書こうと思ったのは、その作品があまりにも自分勝手な愛を押し付けてくるからに他ならなかった。第一話、第二話あたりはあんまりやる気もなかったが、話が進むにつれて、「表主人公」の行動が自己満足に満ちた偽善に見えて、不快感以外呼び起こさなかった。さらに、死んだ恋人が意味もなく生き返り、主人公は愛してると叫ぶだけで何もせず、ただ成りゆきで寄り添うあたりでは感動などどこにもない。それを奇跡だと謳っているにもかかわらずだ。
 死は絶対なる摂理である。死は悪ではない。死は誰にも一度だけ訪れる公平なイベントである。それを覆すならば、例え創作の世界でも大いなる責任が付きまとう。愛していたから生き返る、やりのこした事があったから生き返る、そんな単純な事ではよくない。ましてや、この作品では神が哀れんだから生き返らせたという。神は万物全てに公平なものであると僕は思う(もし、仮に神が存在すればだが)。その神がなぜこの一人だけを生き返らせたのか。作中ではその説明はない。自分の愛だけが正しいと主張する作者の姿がそこにはあるだけだった。
 ならば、それを合理的に説明するには彼の見ている世界を現実の狭間にあると仮定するしかなかった。神が存在し、死人が生き返る「奇跡」それは「表主人公」の歪んだ心の中でだけ存在する「あってはならない奇跡」に他ならなかった。それが見えた時にこの作品はほぼ出来上がっていた。あとは、公開される「表」にあわせてなぞっていくだけで良かった。話が稚拙で、展開も読みやすかった事も大きかった。そういうわけで、「表」が完結した1〜2時間後には「裏」も完成していたのであった。
 
 愛を叫ぶには叫ぶだけの理由と努力が必要とされるわけで、誰かの事を思って部屋の中でひざを抱えているだけの人間にはその資格はない。

 「裏小説」を某掲示板で読んで下さった住人に感謝して。あとがきにかえますた。

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